いよいよ最終巻。
革命の炎は燃え盛り、オスカルもフェルゼンも、そしてアントワネットも歴史の嵐に巻き込まれ、その業火に焼かれてゆきます。
しかし、彼らはそれぞれに、神につまみ上げられて火にくべられたのではなく、自ら決心して炎の中へ飛び込んだのだという矜持を持っていました。
民衆の憎しみの対象となってギロチンにかけられたアントワネットでさえ、最後まで毅然としていたのは、彼女がフランス王妃として、ハプスブルク家皇女として誇りを失うまいという「選択」をしていたからだと思います。
人間は与えられた環境や条件の中でも、精一杯、自らの行動を決めなくてはならないと教えてくれる第5巻をじっくりと味わいましょう。
【5巻最終章】「神にめされて」あらすじと感想まとめ
「神にめされて」あらすじ その 1
1789年7月14日。オスカル率いるフランス衛兵隊は、パリ市民たちとともにバスティーユでの戦闘に加わっていました。
オスカルの的確な指示で民衆側が優勢になりますが、バスティーユ守備隊は指揮官さえ倒せばあとは烏合の衆だとオスカルを狙い撃ちにかかります。
オスカルは銃弾に撃ち抜かれますが、アランに抱きかかえられながらも、バスティーユはもう少しで墜ちる、攻撃を続けろ!と指示し続けます。
危篤のオスカルはアランやロザリーに、己の信念の下に精一杯悔いなく生きた、夫アンドレの待つところへ行くのだと安らかに告げます。
そのさ中、バスティーユが白旗を上げ、陥落します。
オスカルは自分もフランスが自由・平等・友愛の国になる礎のひとつになれたのだという満足感を胸に天国へと旅経つのでした。
夜になり、床に就いた国王の下へ駆けつけた側近のリアンクール公が伝えます。
「暴動ではありません。革命でございます。」と…!
「神にめされて」感想 その 1
バスティーユの戦闘で指揮を執るオスカルのなんと格好良いことでしょう。
今まで、1対1での剣の立ち合いシーンは何度も描かれてきましたが、実戦の指揮のシーンは初めてです。
士官学校で授業はあったでしょうが、近衛隊に勤務している頃は大砲の訓練などはあまりしなかったでしょうから、フランス衛兵隊に移動してから、兵たちと訓練を積んだのでしょう。
でも豊かな金髪ですらりとした長身に華やかな軍服をまとったオスカルが衛兵隊と民衆の中に立っていたら、さぞかし目立って、敵は狙いやすかったことでしょう。
病魔に侵され、愛するアンドレも失ったオスカルは死を恐れずに戦っていたと思います。
バスティーユが堕ちただけでは、まだまだ革命が成功したとは言えませんが、しかし死の間際に見たバスティーユに掲げられた白旗は、オスカルにとっては王室を裏切ってまで民衆の味方に付いた自分が命を賭けて手に入れた「革命の果実」だったのでしょう。
アンドレと心から愛し合った「愛の果実」と、ふたつの果実を心に抱いて、オスカルは己の人生に満足してこの世を去るのでした。
そして専制政治の象徴、バスティーユを堕としたことで民衆が得た「その気になれば王制を打倒できる」という確信は、革命という火薬への火縄に火を点けてしまったのでした。
でもオスカルはバスティーユ陥落の歓喜の中で亡くなって幸せだったと思います。
これからまだ長い時間、革命の理想とはかけ離れた権力争いと混乱と虐殺の時代が続きます。
正義感の強いオスカルが生きていたとしたら、王室に反旗を翻した自分の行為は何だったのかと怒り、己を責めてしまいそうですから。
※ここまではあらすじ→感想と分けて記述していましたが、この先は「あらすじと感想」とまとめた形にいたします。池田理代子先生の創り上げた架空の人物であるオスカルやアンドレが死んでしまったことで、あらすじだけを書くと、ほぼ史実の羅列となってしまうためです。
「神にめされて」あらすじと感想 その 2
国民議会は着々と改革を推し進めていきます。
(フランス中に革命の火が飛び火し農民が反乱、その怒りを鎮める政策を急いで打ち出す必要があったようです。
国民議会議員は革新派貴族やブルジョワ市民などの金持ちが多いので、貧乏な者たちの反乱が怖い立場だったのです。)
国民衛兵隊を組織し、最高司令官にはラファイエット将軍が任命されました。
特権階級の僧侶・貴族がその特権を放棄することを決議。
そして8月4日、自由と平等をうたいあげた「人権宣言」が採択されます。
国王ルイ16世は人権宣言を認めることは渋りますが、かといって有効な対抗策を打ち出すこともありません。それまで国王の周囲にいた貴族たちも業を煮やし、王を見限って続々と国外へ亡命を始めました。
そのような事態のさ中、なんとフェルゼンはアントワネットと運命を共にしようと、フランスへ戻ってきたのです!
革命が起きると、政情不安のため、農民は農作物をパリに売らなくなり、市民はかえって飢えが深刻になりました。王室が革命に対抗するために新たに呼んだ軍隊のために華やかな歓迎パーティーを催したこともパリ市民の怒りの火に油を注ぎました。
10月5日、パリの6千人を超える女たちが武器を持ち雨にずぶぬれになりながらベルサイユまでの6時間の道のりを行進しました(ベルサイユ行進)。
暴徒たちが騒ぐ中、アントワネットはバルコニーへ出ます。そしてそこで深々と優雅なお辞儀をします。この度胸はすごいですよね。あまりの美しさに女たちはちょっと戦意が削がれてしまったようです。しかしそれもつかの間、王は怒れる民衆に折れ、人権宣言を認めます。そして一家ではベルサイユを離れ、パリのテュイルリー宮へ連行され、そこで暮らすことを余儀なくされます。
しかしアントワネットは侮蔑している平民に屈すまいと決心しています。
「神にめされて」あらすじと感想 その 3
国民議会に背き、ひそかに王室に付いていたミラボー伯が死んでしまったこともあり、追い詰められた国王一家はアントワネットの母国オーストリアに亡命する計画を立てます。
フェルゼンが準備を引き受け、様々な手配を超人的な頑張りでこなしてゆきます。なんでも現在の日本円にすると120億円程をフェルゼンが用意したとか!(wikipediaより)どれだけ大切に思っていたのでしょう。ただフェルゼンには愛人がいっぱいいて、そのうちの1人に旅券などの手配を頼んだらしいのですが、少女漫画ベルばらにはもちろんそういった事実は描かれません。疲れて体調を崩すフェルゼンですが、そこには心配するじいやの姿が…!フェルゼン、あなたがアントワネットと運命を共にしようとしているように、じいも年老いた身でフェルゼンと運命を共にしようと決心しているのでしょう。たまには労りと感謝の言葉をかけてあげて下さいね。
1791年6月20日パリ脱出。しかしこの亡命は失敗します。ワインと食器などをどっさり積んだ大きな馬車でのろのろと行進したみたいだし、その外にも様々な理由で遅れて落ち合うはずだった竜騎兵も帰ってしまったり。一家は国民の罵倒を浴びながら、テュイルリー宮へ戻されます。
この事件の心労で王妃の髪は真っ白になったとの逸話がありベルばらにも描かれていますが、すでに伸びた毛の色が変わるなんておかしいですよね。元々プラチナ・ブロンドですし、革命側の願望が生んだエピソードでしょうか。
「神にめされて」あらすじと感想 その 4
この「ヴァレンヌ逃亡事件」から一気に国王一家の立場は弱くなります。
それまでは国王擁護の市民も多かったのですが、王室を廃せ!という声が高まります。
国民議会は
①憲法で国王の力を抑える立憲王制を主張するフィヤン派(自由主義貴族やブルジョワ市民が支持)
②平等を重んじ共和制を主張するジャコバン派(農民や貧しい市民が支持)
③上の2つの中間、おだやかな共和制がいいジロンド派(中流市民や商工業者が支持)
に分かれていますが、ジャコバン派が勢いづくのを恐れた立憲王政派(①)のバルナーブさんが「王様は亡命したんじゃない。誘拐されたのだ。」と詭弁を弄し、なんとか国王やブルジョワ階級の権利を守る内容の憲法を作り上げます。
不満の募ったジャコバン派はシャン・ド・マルス広場でデモ行進や署名活動を行いますが、ブルジョワ階級のラファイエット将軍(①)が市民を攻撃、50人もの死者を出します(シャン・ド・マルスの銃撃)。
なりふり構わぬ立憲王政派の声が大きくなり、1791年9月14日、国民議会が決めた憲法を国王が認めます。
世界史の授業のレポートのようですみません。フランス国内が混沌としており、私も書きながら頭の整理をしています。
これを書くためにベルばら文庫本だけでなく、一応簡単ながらも史実を確認しているのですが、調べるほどにベルばらがフランス革命をよくまとめてあることに感心してしまいます。
その上、絵も華麗で美しく、これを週刊雑誌で連載していたなんて信じられないほどです。
若き作者の画力・知力・体力が情熱によって昇華した、奇跡のような作品だと思います。
ただ、とても大きな事実が欠けていて、それゆえにベルばらのアントワネットはどんなに美しく、どんなに女王としての誇りを失わなくとも、「彼女の贅沢がフランスの国庫を空っぽにして国民を飢えさせた」とのイメージを読者に植え付けます。
その「欠けている事実」については後述します。
「神にめされて」あらすじと感想 その 5
フェルゼンはオーストリアの首都ウィーンに滞在しています。アントワネット一家を救い出すよう皇帝を説得するも応えてもらえません。プロシア、ロシアも同様でした。フェルゼンはアントワネットから送られた手紙と愛を込めた指輪を見つめ、パリへ戻る決心をします。
(1791年8月27日のピルニッツ宣言は口先だけだったみたいですね。)
じいは必死で止めますが、「愛の狂気にとらわれた者の死にざまを見るがいい」などとアブナイ表情で語り、じいに旅の用意をさせます。フェルゼンは親不孝ならぬ(いや親不孝でもあるけど)じい不幸です。じいの心労はいかばかりだったでしょう。この18年後にフェルゼンは無残な死を迎えるのですが、じいはフェルゼンをどこまで見届けることが出来たのでしょう。
フェルゼンが王妃一家を助ける行為は全くの私心だけではなく、スウェーデン国王グスタフ3世の支持もあったようです。
この後、1792年2月にテュイルリー宮侵入、亡命を勧めるも国王から断られる
(3月グスタフ3世暗殺、スウェーデンは革命から距離を置き、フェルゼン失脚
となるので、じいの心臓が止まらなかったか心配です。
フェルゼンの復権は1796年まで待たねばなりません。じいはそれを知ることが出来たのでしょうか?)
1792年2月のある夜、フェルゼンはオスカルの父レニエ・ド・ジャルジェ将軍に後を頼みテュイルリー宮へ忍び込みます。そして出会いから19年の時を経て、アントワネットとフェルゼンは初めて結ばれたのでした。
フェルゼンがテュイルリー宮へ命がけで忍び込んだとき、実際にアントワネットと何かあったのか?確実な決め手はないようですが、こちらのサイトの記述はとても興味深いです。
http://mayati1349.blog.jp/archives/51431702.html
その後、フェルゼンは国王ルイ16世に亡命を進言しますが断られます。しかし国王はフェルゼンの忠誠に心からの感謝を示すのでした。そしてアントワネットとフェルゼンは二度と会えないだろうとの予感の中、涙で別れを惜しむのでした。
「神にめされて」あらすじと感想 その6
オーストリアは度々フランス革命に干渉しました。口だけのときもあったようですが、フランスはムカつきます。1792年4月20日、フランス革命政府のオーストリアへの宣戦布告により戦争がはじまります。ジロンド派が政権を取っており、また国会で開戦を宣言したのは国王ルイ16世でした。
ジロンド派は中流の貿易商や銀行家、大商人などが主な支持者であったので、戦争が起これば彼らが儲かると考えました。戦争特需ですね。
この時、ベルばらではアントワネットと義妹エリザベートは「私たちの立場が危うくなるのに。亡命貴族たちは私たちのことなんか考えてない」と抱き合って泣くだけなのですが、実際のアントワネットは「オーストリア軍よ、フランスに痛い目遭わしてくれや!」とばかりにフランスの作戦をオーストリアに流していたらしいです。この事実を漫画にしてくれた方が、ベルばらで一家がテュイルリー宮へ移された後、アントワネットが「これからは国王陛下の代わりにわたしが男にならねば…わたしは革命なんかみとめない、ぜったいに!!」と決心していたシーンと繋がると思うのですが。
議会ではジャコバン派が王の廃位を求め続けます。アントワネットの手回しで、オーストリア・プロイセン連合は「もし国王一家に手ェ出したらワイらがパリを占領して死の町にしたるけんな!」と脅しをかけてきました。この脅しと王妃が情報を流している話が広められたことで市民は激怒。
そして1792年8月10日事件が起こります。ジャコバン派に指導された怒り狂う民衆に義勇軍も加わり、テュイルリー宮を襲います。テュイルリー宮を守っていたスイス兵たちは大勢が殺されました。国王一家は議会へ逃亡、何とか命は助かりますが、王権は停止され、一家はタンプル塔に幽閉されます。
共和制を訴えるジャコバン派の勢いが増してきます。
8月11日に立法議会が反革命派の逮捕を許可します。
戦地にいたラファイエット将軍は国王を救出にパリに向かいたかったのですが、兵たちは協力してくれず、ラファイエット将軍はオーストリアに亡命します。
オーストリアやプロイセンは勢いに乗り勝利を収めていきます。
その報にパリ市民たちは、オーストリア軍とパリの反革命派が呼応して自分たちを皆殺しにするだろうと震えあがり、殺られる前に殺れ!と反革命派(と決めつけた)の人々を虐殺しました。
9月虐殺と呼ばれるこの事件、9月2日からの数日間で殺された人数は1,100~1,400、全国では14、000~16,000人と言われます。(数字はwikipediaより)
この時、革命が起きても王妃を見捨てなかったランバル公妃も首を切られ、惨(むご)く殺されています。
怖いですね、パリ市民。飢えて怒りと憎しみで興奮状態の時に、敵軍に皆殺しにされる恐怖が襲ってきて、しかも王室が敵と内通しているとの話が広まったら、当時の庶民に冷静に振舞えと言っても無理でしょうが…
「その6」の部分はベルばらではあまり描かれていません。(たった2ページ!)
一連の事件はあまりにも惨たらしいので当時の少女漫画としては省いた方が良いと判断されたのでしょうか。
ベルばらでランバル公妃は完全に無視されています。革命が起こってアントワネットをさっさと見捨てて亡命したポリニャック伯夫人の登場場面の多さとは対照的。とりまき貴族たちがみーんな手のひら返しをして王妃はひとりぼっちになってしまった…というシーンを際立たせるためでしょうか。
「神にめされて」あらすじと感想 その 7
負け続けていたフランス軍ですが、9月20日、ヴァルミーの丘でプロイセン軍に勝利!
普通選挙により選ばれた議員により新議会「国民公会」が生まれます。
第1位で選ばれたのはジャコバン派の弁護士ロベスピエール。
9月21日、国民公会はフランスが共和制になることを宣言、ルイ16世に王制の廃止と退位を通告します。立憲王政は1年しか続かなかったことになります。
そしてルイ・オーギュストとマリー・アントワネットは…
「神にめされて」あらすじと感想 その 8
1792年9月21日、新議会「国民公会」にて王政の廃止と共和制が宣言されました。
しかし国民公会でもジロンド派とジャコバン派の対立は続きました。
ジャコバン派は金を持てない市民や農民が支持しており、国王の処刑を主張しています。
ジロンド派はブルジョワなどが支持をしており、国王の処刑には反対していました。
両者の議論は長々と続き、膠着状態でしたが、11月3日、25歳の青年議員サン・ジュストの演説がジロンド派を劣勢に立たせます。その内容は次のようなものでした。
「もともと人民のものである主権を独占した国王は主権簒奪者である。王は罪なくして王たり得ず」
国民主権の考えによれば国王は全国民から主権をドロボーした犯罪者という理論です。諸外国の圧力という現実からからフランス国王の扱いを丁重にしようとしているジロンド派も共和制を支持しているのでサン・ジュストの意見に反論できません。
翌1793年1月15~19日、国民公会はルイ16世の処遇を決めるための投票をおこない、361票対360票にわずか1票差で死刑が決まったとされます。
1月20日処刑の前日。ルイ16世は家族との別れを許されます。彼は息子ルイ・シャルルに復讐を考えないよう片手を上げて誓いを行わせます。1月20日ルイ16世は革命広場でギロチンにかけられます。
アントワネットは息子ルイ・シャルルの前に跪き「新国王ルイ17世陛下…」と呼び手を取るのでした。
1793年6月2日国民公会からジロンド派が追放され、ジャコバン派ロベスピエールが権力を握ります。彼は1794年春にジャコバン派の左派と右派も粛清して独裁政治を行います。
若者が自分たちの理想を実現しようと急進的な活動を行うとテロや過激な行動に走りがちになります。
池田理代子先生は1947年生まれ、団塊世代です。
同世代が1960年代後半に大学で大学運動に血道を上げていました。彼女自身が活動に参加していなくとも、大きな影響を受けただろうと思います。学生たちは戦後生まれがアンシャン・レジームを壊すための闘争だと考えていました。
武装闘争で理想を実現しようとする新左翼と呼ばれる過激派も誕生していて、彼らは学生運動が下火になっても活動を続けていました。
合流した過激派が連合赤軍と名乗り、山岳ベース事件と呼ばれる仲間内でのリンチ事件やあさま山荘事件を起こすのが1971年末から1972年2月です。
ベルサイユのばらの連載が始まるのも1972年です。
高い理想を掲げていたはずが仲間内で殺しあう姿に、池田理代子先生にはフランス革命の革命派たちが重なって見えたのではないでしょうか。
1960~1970年代は今よりずっと労働組合活動なども盛んでしたし、この頃の日本の空気がベルサイユのばらという漫画に影響していると思うのは私だけでしょうか。
我々は正しい!だから我々に反対するものは悪だ!だから排除せよという思考がとても危険なものだということは歴史を見ても現在の国際情勢を見てもとても良く分かります。
1793年7月国民公会は8歳のルイ・シャルルをアントワネットや姉たちと引き離す決定
ベルばらではフランス王位継承者であることを忘れさせて共和国の一市民として成長させるためとあり、その後庶民感あふれるワンパク小僧となって「貴族のやつらをしばり首♪」と歌い踊りながら登場、タンプル塔に我々を苦しめる悪い奴らが閉じ込められていると聞き「ふう…ん。早くくたばればいいのにね」と言っています。実際もこんなに元気な悪たれ小僧に育ってくれたなら良かったのに!。
ルイ・シャルルは10歳頃タンプル塔で亡くなったそうです。彼のものといわれる心臓がサン・ドニ大聖堂に保管されていて、近年の鑑定でアントワネットとの親子関係が証明されています。タンプル塔では後継人になった男などから酷い虐待を受けていたとも言われています。Wikipediaに虐待の内容が詳しく、読んでいて気持ちが悪くなってしまった程なのですが、デマだという説もあります。デマでありますように!!!と200年以上昔に起こったことなのに祈らずにいられません。
別のフランス革命の漫画(「第3のギデオン」乃木坂太郎;小学館2015年-2018年ビッグコミックスペリオールにて連載)でルイ・シャルルの下に、彼を可愛がってきた侍女が駆けつけ「ひどい目に遭っているというデマを流しましょう。あなたの身を守るために…」という内容のセリフを言うのですが、作者のルイ・シャルルのための祈りだと思いました。罪の無い幼い子の虐待はデマなんだとの…
1793年8月2日、アントワネットの裁判
アントワネット裁判にかけられるため娘や義妹とひき離され、コンシェルジュリー牢獄へ移され女囚280号と呼ばれます。
彼女の独房にやってきたのは懐かしいロザリー!彼女は夫のツテでアントワネットのお世話係にしてもらったのでした。
独房の寂しい生活中、監視兵や牢番のおかみさんやロザリーがアントワネットにとても親切で彼女にひとときの安らぎを与えたとあります。でも後にアントワネットの親切にし過ぎたかどで投獄されるのだそうです。あんまりですよね。でもなんでロザリーだけ投獄を免れているのでしょう。メインキャラだと言ってもひいきのし過ぎです。一番アントワネットに親切じゃあないですか!それともそれが実話?実際お世話係はロザリという名前で、裁判の判決が下り死刑を待つアントワネットのスープを勧めるくだりは実話らしいですね。
ベルばらではジャルジェ将軍(オスカルのパパ)が亡命を勧めるもアントワネットは子供たちをおいてはいけないと断っていましたが、実際は王党派によるアントワネット逃亡計画が試みられて失敗したそうです。
アントワネットの裁判は尋問が1793年9月3日、予審尋問が10月12日、公判が10月14日から行われましたが、判事も陪審員も革命派が占め、判決は裁判前から決まっていました。
アントワネットは無罪を主張し裁判は難航しました。エベールらはルイ・シャルルに母親から近親相姦を強要されたと証言させますが、アントワネットは傍聴している女性たちに訴え彼女たちの共感を得ます。
10月15日アントワネットに死刑判決が下されます。
そして1793年10月16日、元フランス王妃マリー・アントワネットはギロチンにかけられたのでした。ルイ16世の処刑のおよそ9ヶ月後のことでした。
刑場の革命広場(現コンコルド広場)に向かう際、ルイ16世は馬車であったのに対し、アントワネットは後ろ手に縛られ、髪を短く切られ、肥桶用の荷馬車に乗せられます。にっくきオーストリア女を辱めようという意図が見えます。
実際のアントワネット本人はもともと呑気なところもある気のいい女性という印象です。
ベルサイユ時代は慈善事業にも熱心であったのに、ベルばらには描かれていません。
そして何より、私が5巻①で後述しますと書いた「欠けている事実」。
このことを一切省いているためにベルばらのアントワネットはフランスの国家財政を傾けた張本人といった印象を読者に植え付けるのです。
ベルばらに「欠けている事実」はフランス国家の財政難はルイ14世、ルイ15世からの度重なる戦争のせいだということです。そしてルイ14世のベルサイユ宮殿建設などにも莫大なお金が注がれているのです。ルイ16世がアメリカの独立戦争の支援をしたことも追い打ちをかけています。
1783年アイスランドのキラ火山の噴火による不作で食べるものが無くなりました(これはベルばらにあり)。
アントワネットの生活は確かに贅沢でしたがそれだけで国家予算を傾けるほどではありませんでした。しかし庶民が生活苦にあえいでいる中、仲の悪い外国から来た王妃が奇抜なファッションを楽しんだり、フェルゼンとの恋の噂があったりで悪目立ちをし、庶民のストレスのはけ口として今で言うところの「炎上して叩かれている」状態になったのでしょう。
このことはフランス史に詳しい人の間では今では常識のようですし、45年前とはいえフランス革命時代をそうとう調べたと思われる池田理代子先生が省いてしまったのが不思議なのです。45年前のアントワネットの印象のままにしたのでしょうか?
ただマリー・アントワネットは気のいい女性の反面、庶民を侮蔑する「絶対王政主義」のところはあったので、時代の変化に適応できなかったのでしょうね。
上の姉の急逝でピンチヒッターとしてナポリ王に嫁いだ姉マリア・カロリーナが当初の予定通りフランス王妃になっていれば立憲君主制でとどまっていたとよく言われています。カロリーナはしっかり者で聡明だったそうです。
また歴代の国王は愛人をとっかえひっかえ、宮廷の社交も公娼に任せていて、正妃とは公式行事くらいしか会わなかったのに、ルイ16世は愛妾をもたなかったこともアントワネットが目立つ原因でもあったようです。
様々な要素が複雑に絡んで、フランス国王と王妃は狂気と共に推し進められる革命のスケープゴートになったと言えるでしょう。
ベルばらのフェルゼンはアントワネットが処刑当日、自分も死のうとします。じいは必死で止めます。
死ぬのならこのじいを殺してからにしてくだされ、フェルゼン様が死んだ後におめおめと生きてはいられませぬ。30年片時も離れずお世話してきたものを…と。
じいの命がけの説得で死ぬのを取りやめたフェルゼンですが、その後陰気で冷酷な権力者となり、1810年6月20日、奇しくもヴァレンヌ逃亡事件と同じ日にスウェーデンの民衆に撲殺されてしまいます。享年54歳。
じいはフェルゼンの最期を知らないですよ、ね…?
ーFIN.ー
ベルばら文庫版5巻
ベルばら外伝/黒衣の伯爵夫人 あらすじと感想
文庫版べるばらの最後に収録されています。
「黒衣の伯爵夫人」はベルばら本編の連載が終わった約1年後の1974年に週刊マーガレットに掲載されました。
【あらすじ】
オスカル・アンドレ・ロザリーの3人がオスカルの姉のところに遊びに行き、姉は大歓迎。
姉は最近このあたりで農家の娘が次々と姿を消していて、吸血鬼の仕業だといううわさが広まっていると話します。3人は姉の娘おしゃまなル・ル―、オスカルに惚れたシャルロットを連れて森へピクニックに行きますが、道に迷ってしまいます。5人は舞踏会で知り合った美しいモンテクレール伯爵夫人の住む城を見つけ、一晩泊めてくれるよう頼み、伯爵夫人は快く応じてくれます。以前からこの城には美青年が住んでいると女性たちの噂の的でしたが、実は彼は人殺しのための機械仕掛けの人形。若い娘を殺し、その血を浴びて若さを保とうとする伯爵夫人が作らせたものでした。シャルロットは人形の餌食になり、ロザリーやオスカルも伯爵夫人に命を狙われますが、ル・ルーの機転やアンドレの奮闘により二人を救出、追い詰められた伯爵夫人は殺人人形に身を投げ出し、炎に包まれた城の中で滅んでゆきます。
【感想】
この作品、本当に絵がキレイです。ロザリーもおしゃれしていてとっても可愛いし、モンテクレール伯爵夫人もエリオル(機械人形)もめちゃくちゃ美しいし、若い女の子もたくさん出てきて眼福なのです。
池田理代子先生の絵は1970年代頃のものが一番好き。
でも話は怖いですね。若い子の血を浴びても若返らないからあああ!
だったら出産後の産婦から胎盤もらって食べた方がまだプラセンタとか摂れるんじゃないのおおおお!!!!
多分少女の恐怖にゆがんだ顔を見たり叫び声を聞いたりするのが快感だったのでしょうね、真性のサドです。
それにしてもロザリーはいい娘ですよね。シャルロットが「いい子ちゃんすぎてウザい、ムカつく」と思った気持ちも分からなくもありません。革命期のおかみさんたちがあまりに恐ろしいので、彼女たちとロザリーが同じような飢えた暮らしをしていたのが信じられません。貴族の血のなせるわざでしょうか?
アンドレの姿でいつの頃の事件か分かるのが面白い。黒い騎士と同じ髪型にして、目をまだ負傷していない時のようです。黒い騎士を追って忙しかったので、たまには姉上のところで羽を伸ばそうかということになったのかしら。
美しき恐怖の館から命からがら逃げかえった3人は帰路において夢だったのかな…という気持ちになったのでは。一人ル・ル―ちゃんは終始冷静でしたけれど。
作者も最後に述べているように、16世紀末、ハンガリア王国において600人以上もの少女を殺した伯爵夫人エルザベート・バートリの実際の事件からヒントを得た作品です。
エルザベート・バートリについてはこちらのサイトが詳しかったのでご紹介します。
エルゼベート・バートリ/黒衣の伯爵夫人
https://blog.goo.ne.jp/asumirio63/e/6c9b5d565b2490fb46c5db883494ac5a
鋼鉄の処女
https://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/a903781773f8ce5b8031c164fa56d849
悪女列伝・エリザベート・バートリ